忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/05/15 15:15 |
フロイス『日本史』の秀包と桂姫
コルメ(久留米)の城の一老翁のトオシロオドノ(藤四郎殿)及びその夫人ドナ・マセンチアDonna Massentiaよりぱあでれを迎ふる為に遣はさ れたるに会ひたり、これ是非その行く路よりやや離れたるその都城に到らむことを求むるにてありき。ぱあでれは急ぐ道なればとて之を謝しまた人々を伴に遣は したることの礼を言ふ為に、一人の伊留満を遣はしたるが、それにては満足せず、その地に至りて次の日みさを述べむことを懇望して止まざりければ、ぱあれで もつひに之を聴き、またその地にて恭敬と愛情とを以て頗る厚侍せられたり。ぱあでれの到るや人々の満足はこの上もなかりしが、そこに在りしは唯少時のみに して、昼食の後すぐに出発したりければ、みな大に落膽(肝)せり。その出発にあたりてはトオシロオドノはまた既述の諸侯の為せると同じく為せり。

これは1590年、長崎にいたフロイスが秀吉に謁見するために都へ上る途中のことだそうな。秀吉は7月に宇都宮仕置を終えて聚楽第に戻ってるから、大体秋頃のお話ですねー。
何かと留守がちなイメージの藤四郎こと秀包も、小田原に参戦していたはずですが、ぱあでれ上京より前には帰国してたんですね。この文章の前に、上京に際してぱあでれにアドバイスした一人にとして、隆景&秀包義親子の仲良しの官兵衛殿こと黒田如水の名前が挙げられているので、官兵衛ルートでも秀包は上京の詳細を知ることが出来たんかなー。
ちなみに鍋島家→久留米→秋月の順に寄っていったらしいです。出発の際のお見送りも、一里ぐらい、その領土の境まで送るという丁寧さ。

『久留米市誌』によれば、

天正十八年晩秋ー十一月末ー長崎耶蘇会の巡察師父アレッサンドロ・ワリニヤアニが大友、有馬、大村三侯の使節を伴い、一行二十六人長崎を発し大村・佐賀・ 久留米・秋月・小倉・下関等を経て関白秀吉に拝謁のために京に上る途中、久留米の城主毛利秀包は、特に使者を佐賀領境に遣し、久留米に立ち寄らんことを請 ひしかば、巡察師父ワリニヤアニは、其答礼として伊留満(イルマン)一人を久留米に遣ししが、領主毛利氏は、特に立ち寄りて、ミサ祭式を執行はんことを懇 望せり。是に於て巡察師父は、久留米に来りて大に歓待せられたりき。しかし京へ急ぐ途中なりしを以て少時にして久留米を去れり。毛利氏は鄭重に之を見送り たり。

ということだったそうです。
PR

2014/07/16 21:12 | Comments(0) | 小早川秀包/大友桂姫
親成さんから手紙が来ましたよ

立花親成さんから来た、「羽内記」さんへのお手紙です。
ちなみに親成さんと言うのは、後の名で言うと宗茂さん。変名大王(違う)の宗茂さんが「親成」と名乗り始めたのは、文禄三年(1594年)後半から翌年前半の事なので、文禄の役で朝鮮半島にいた時に変名されたものと思われます。ちなみに次のお名前に変えるのは関ヶ原直後の事なので、このお手紙は1594~1600年の間に書かれたものです。
「羽内記」ですが、これはもちろん羽柴内記こと秀包さんです。次の記事で取り上げますが、秀包さんが関ヶ原の時に家来の人にあげた感状での名乗りが羽柴内記なので、間違いないかと。 親成さんの「羽左近」は、羽柴左近侍従の略ですしね。このお二人は義兄弟だそうなので、きっと手紙も面白い事が書いてあるに違いない…!いつか訳せるようになろう(うん)
 


2009/03/09 21:42 | Comments(0) | 小早川秀包/大友桂姫
秀就女の祝言
山本博文さんの『江戸城の宮廷政治』は細川忠興・忠利親子の文書を元に書かれたそうで、前からかなーり楽しく読ませて頂いているのですが、そこにチラッと毛利家の事が出てきたので書いてみます。
山本先生が書いている『江戸お留守居役の日記』は毛利家のお話だそうなので、図書館で予約中!



寛永八年(1631年)八月三日、毛利秀就の息女と松平忠直と勝姫(徳川秀忠の三女)の長男・光長の祝言が行われた。その時の細川忠利の言。(勿論お手紙の相手は父の忠興)

「毛利殿国向きの豊後に、一伯殿(忠直さん)ござ候に、色々訴訟にて相調えられ候、かやうの不調法なる儀ながら、毛利殿生まれつき故、苦しからず候とのさんだん(算段)にてござ候事」
緋翠の適当意訳:毛利さんは山口在住で、すぐ近くの大分県北部に流刑になった一伯殿がいるのに、わざわざあれこれと幕府にお願いして(モメて)、縁談を調えたそうです。信じられない非常識ですが、どうやら幕府は毛利殿(秀就)は生まれつきアレだから構わんだろう、と考えたとの事です。

とりあえず一言。
どれだけ秀就さんは 馬 鹿 に さ れ て る ん だ。
この本を読んでると色んな武将さんのお話も出てくるし、細川親子さんの手紙は飽きないし、山本先生ありがとうございます!と言う感じです。蛍光ペンで線引きながら読んでます。(大事にしなさいよ)

2009/03/05 22:49 | Comments(0) | 毛利家
基本データ:小早川家
本姓:土肥氏(桓武平氏良文流)
家祖:小早川遠平(1200年前後)
家紋:左三つ巴

・相模から安芸へ
遠平は平氏討伐の褒章として安芸国沼田荘を与えられ、その後、彼の養子である景平が領地を譲られて沼田荘へ拝領した。建永元年(1206年)、景平は長男の茂平には沼田本荘を、次男の季平には沼田新庄を与える。その茂平は承久の乱で戦功があり、安芸国都宇荘(つうのしょう)、竹原荘(たけはらのしょう)を加増された。

・沼田小早川氏(本家)
茂平の三男である雅平が沼田本荘を与えられて高山城を本拠としたのが始まり。
元弘の乱で六波羅探題に味方した為に後醍醐天皇政権により沼田を没収されかけるが、分家の竹原小早川家のとりなりによって旧領を安堵された。その後、小早川水軍が築かれていく。

・竹原小早川氏
茂平の四男である政景が、茂平が承久の乱の際に得た領地の一部を与えられて木村城を本拠としたのが始まり。
分家筋にあたるが、元弘の乱で足利氏に味方した事が幸いし、室町時代中期には本家と拮抗するほどに成長。最後の当主である興景の妻は元就の兄・興元の娘である。

2009/03/05 15:36 | Comments(0) | 小早川家
基本データ:問田大方
読み:といたのおおかた
立場:小早川本家である沼田小早川家息女、小早川隆景正室

生没年:1543?1544?~元和五年六月二十一日(1619年)
享年:恐らくは七十代

本名:不詳
通称:問田大方(隆景死後、長州移封の後にこう呼ばれた)
法名:慈光院月渓永智
墓所:下小鯖鳴滝の泰雲寺
出身一族:沼田小早川氏(本家。)
父:小早川正平(1523~1543年)
兄:小早川繁平(1542~1574年)
夫:小早川隆景(婚姻時、竹原小早川家当主)
養子:秀包(母が小早川氏支流の乃美氏)、秀秋

生年は、兄の生年と父の没年から1542~1544年の間と思われる。何れにせよ、隆景が沼田小早川家に婿養子に入った天文二十年(1551年)時点では十歳以下。その後、子はなかったが隆景との仲は良好と伝わる。
毛利家の防長移封後は周防国吉敷郡問田に住んだ為に、問田大方と呼ばれた。

2009/03/05 15:22 | Comments(0) | 小早川家

| HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]