コルメ(久留米)の城の一老翁のトオシロオドノ(藤四郎殿)及びその夫人ドナ・マセンチアDonna Massentiaよりぱあでれを迎ふる為に遣はさ れたるに会ひたり、これ是非その行く路よりやや離れたるその都城に到らむことを求むるにてありき。ぱあでれは急ぐ道なればとて之を謝しまた人々を伴に遣は したることの礼を言ふ為に、一人の伊留満を遣はしたるが、それにては満足せず、その地に至りて次の日みさを述べむことを懇望して止まざりければ、ぱあれで もつひに之を聴き、またその地にて恭敬と愛情とを以て頗る厚侍せられたり。ぱあでれの到るや人々の満足はこの上もなかりしが、そこに在りしは唯少時のみに して、昼食の後すぐに出発したりければ、みな大に落膽(肝)せり。その出発にあたりてはトオシロオドノはまた既述の諸侯の為せると同じく為せり。
これは1590年、長崎にいたフロイスが秀吉に謁見するために都へ上る途中のことだそうな。秀吉は7月に宇都宮仕置を終えて聚楽第に戻ってるから、大体秋頃のお話ですねー。
何かと留守がちなイメージの藤四郎こと秀包も、小田原に参戦していたはずですが、ぱあでれ上京より前には帰国してたんですね。この文章の前に、上京に際してぱあでれにアドバイスした一人にとして、隆景&秀包義親子の仲良しの官兵衛殿こと黒田如水の名前が挙げられているので、官兵衛ルートでも秀包は上京の詳細を知ることが出来たんかなー。
ちなみに鍋島家→久留米→秋月の順に寄っていったらしいです。出発の際のお見送りも、一里ぐらい、その領土の境まで送るという丁寧さ。
『久留米市誌』によれば、
天正十八年晩秋ー十一月末ー長崎耶蘇会の巡察師父アレッサンドロ・ワリニヤアニが大友、有馬、大村三侯の使節を伴い、一行二十六人長崎を発し大村・佐賀・ 久留米・秋月・小倉・下関等を経て関白秀吉に拝謁のために京に上る途中、久留米の城主毛利秀包は、特に使者を佐賀領境に遣し、久留米に立ち寄らんことを請 ひしかば、巡察師父ワリニヤアニは、其答礼として伊留満(イルマン)一人を久留米に遣ししが、領主毛利氏は、特に立ち寄りて、ミサ祭式を執行はんことを懇 望せり。是に於て巡察師父は、久留米に来りて大に歓待せられたりき。しかし京へ急ぐ途中なりしを以て少時にして久留米を去れり。毛利氏は鄭重に之を見送り たり。
ということだったそうです。
PR
立花親成さんから来た、「羽内記」さんへのお手紙です。
ちなみに親成さんと言うのは、後の名で言うと宗茂さん。変名大王(違う)の宗茂さんが「親成」と名乗り始めたのは、文禄三年(1594年)後半から翌年前半の事なので、文禄の役で朝鮮半島にいた時に変名されたものと思われます。ちなみに次のお名前に変えるのは関ヶ原直後の事なので、このお手紙は1594~1600年の間に書かれたものです。
「羽内記」ですが、これはもちろん羽柴内記こと秀包さんです。次の記事で取り上げますが、秀包さんが関ヶ原の時に家来の人にあげた感状での名乗りが羽柴内記なので、間違いないかと。 親成さんの「羽左近」は、羽柴左近侍従の略ですしね。このお二人は義兄弟だそうなので、きっと手紙も面白い事が書いてあるに違いない…!いつか訳せるようになろう(うん)
読み:よしきもうりけ
祖:毛利(小早川)秀包
領地:周防国吉敷(山口県山口市吉敷地内)
本拠:吉敷郡吉敷村
家格:長州藩一門家老第四席
初め、秀包の子・元鎮が周防国吉敷に七千石を与えられ、後(1625年?)、領地替えの時に元鎮の子・元包が一万一千石に加増される。元包は豊浦にあった菩提寺(黄龍山玄済寺)を吉敷に移しており、元包の時に吉敷毛利家として確立したものと思われる。
・歴代当主
初代 元鎮(1591~1672):秀包の長男。
二代 元包(1607~1676):元鎮の嫡男。吉敷入りした最初の当主。慶長十八年(1613年)、父・元鎮と共に阿川八幡宮を修築した。
三代 就直(1635~1710):なりなお。毛利(天野)元法(右田毛利家三代当主。天野元政の孫)の子。
祖:毛利(小早川)秀包
領地:周防国吉敷(山口県山口市吉敷地内)
本拠:吉敷郡吉敷村
家格:長州藩一門家老第四席
初め、秀包の子・元鎮が周防国吉敷に七千石を与えられ、後(1625年?)、領地替えの時に元鎮の子・元包が一万一千石に加増される。元包は豊浦にあった菩提寺(黄龍山玄済寺)を吉敷に移しており、元包の時に吉敷毛利家として確立したものと思われる。
・歴代当主
初代 元鎮(1591~1672):秀包の長男。
二代 元包(1607~1676):元鎮の嫡男。吉敷入りした最初の当主。慶長十八年(1613年)、父・元鎮と共に阿川八幡宮を修築した。
三代 就直(1635~1710):なりなお。毛利(天野)元法(右田毛利家三代当主。天野元政の孫)の子。
小早川(毛利)秀包の嫡妻。大友宗麟の七女。
生没年:(1570)~慶安元年(1648)
享年:79歳
号:引地の君
霊名(洗礼名):マセンシア
※引地の君は秀包と死別後の呼び名。
父母:大友義鎮、奈多夫人
兄弟:義統(コンスタンチノ。1558~1610)、親家(セバスチャン。1561~?)、親盛(パンタレアン。1567~1643)、他姉妹三人
夫:小早川藤四郎秀包(1567~1601)
長男:才菊丸→元鎮(1591~1672)
次男:元貞
三男?:小早川能久
長女:繁沢元景室
秀包の菩提寺である西樂寺には桂姫の位牌はなく、傍にある丘の上に墓碑がある。
生没年:(1570)~慶安元年(1648)
享年:79歳
号:引地の君
霊名(洗礼名):マセンシア
※引地の君は秀包と死別後の呼び名。
父母:大友義鎮、奈多夫人
兄弟:義統(コンスタンチノ。1558~1610)、親家(セバスチャン。1561~?)、親盛(パンタレアン。1567~1643)、他姉妹三人
夫:小早川藤四郎秀包(1567~1601)
長男:才菊丸→元鎮(1591~1672)
次男:元貞
三男?:小早川能久
長女:繁沢元景室
秀包の菩提寺である西樂寺には桂姫の位牌はなく、傍にある丘の上に墓碑がある。
読み:こばやかわ ひでかね
生没年:永禄十年(1567年)~慶長六年三月二十二日(1601年4月24日)
享年:35歳
改名履歴:毛利才菊丸⇒大田才菊丸(元綱)⇒小早川元総⇒小早川秀包⇒毛利秀包
字:藤四郎
別名:市正、内記、(行包)
官位:治部大輔、侍従、筑後守
霊名(洗礼名):シマオ・フィンデナオ
諡号:玄濟道叱
戒名:
菩提寺:山口県下関市豊北町滝部西樂寺(浄土真宗)
父母:毛利元就、乃美大方
同母兄:五男・穂井田元清、八男・天野元政
異母兄姉:長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景、四男・二宮就辰、六男・毛利元秋、七男・出羽元倶、九男・末次元康、五龍(宍戸隆家室)、芳林春香(上原元将室)
義父母:小早川隆景、問田大方
義兄弟:立花宗茂(統虎)、小早川秀秋
妻:大友宗麟の七女(?)・桂姫(引地の君、ドナ・マセンシア)
子:毛利元鎮(才菊丸、フランシスコ)、毛利元貞、小早川能久
所持品:雨夜の手拍子?(鉄砲)
豊臣秀吉への人質となった天正十二年(1584年)に疱瘡にかかる。(母の乃美氏が心配して厳島神社に秀包の平癒祈願を頼んでいる。)
生没年:永禄十年(1567年)~慶長六年三月二十二日(1601年4月24日)
享年:35歳
改名履歴:毛利才菊丸⇒大田才菊丸(元綱)⇒小早川元総⇒小早川秀包⇒毛利秀包
字:藤四郎
別名:市正、内記、(行包)
官位:治部大輔、侍従、筑後守
霊名(洗礼名):シマオ・フィンデナオ
諡号:玄濟道叱
戒名:
菩提寺:山口県下関市豊北町滝部西樂寺(浄土真宗)
父母:毛利元就、乃美大方
同母兄:五男・穂井田元清、八男・天野元政
異母兄姉:長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景、四男・二宮就辰、六男・毛利元秋、七男・出羽元倶、九男・末次元康、五龍(宍戸隆家室)、芳林春香(上原元将室)
義父母:小早川隆景、問田大方
義兄弟:立花宗茂(統虎)、小早川秀秋
妻:大友宗麟の七女(?)・桂姫(引地の君、ドナ・マセンシア)
子:毛利元鎮(才菊丸、フランシスコ)、毛利元貞、小早川能久
所持品:雨夜の手拍子?(鉄砲)
豊臣秀吉への人質となった天正十二年(1584年)に疱瘡にかかる。(母の乃美氏が心配して厳島神社に秀包の平癒祈願を頼んでいる。)