何が書いてあるのかは適当に察する!それが古文書の読み方だ。( 違 う )
功山寺(長福寺)のHPでは秀元さんの直筆が見れてウハウハでした(…)
字、綺麗だなー!!!…多分(え) 緋翠から見ると秀元さんの字は綺麗だと思う。って、でもこれは右筆が書いてるのかしら。いや、そんな事はないだろ、菩提寺だし…と思ったけれども、直筆とは書いてないんですよね…。どうなんだろう。ド素人の管理人にはわかりかねます(汗)
長くなるので続きから。
功山寺(長福寺)のHPでは秀元さんの直筆が見れてウハウハでした(…)
字、綺麗だなー!!!…多分(え) 緋翠から見ると秀元さんの字は綺麗だと思う。って、でもこれは右筆が書いてるのかしら。いや、そんな事はないだろ、菩提寺だし…と思ったけれども、直筆とは書いてないんですよね…。どうなんだろう。ド素人の管理人にはわかりかねます(汗)
長くなるので続きから。
・毛利秀元寄進状
『笑山寺隠居白尓(ニ)軒豊東郡
松小田村境内山林寺識并(ヒョウ)
高拾四石七斗之地百姓弐間
令寄付畢(ことごとく)全可有執務者也
慶安弐
極月九日 (花押)
白尓軒』
とりあえずわかる事から書くと、慶安二年と言うのは1649年、極月と言うのは旧暦の十二月。秀元71歳の時…と言う事は、お亡くなりになる前年ですね。
「笑山寺隠居」とありますから、さしもの秀元さんも自称ご隠居だったのでしょうか。江戸でお亡くなりになってる秀元さんですが、祖母の乃美大方、母の妙寿院の為に建てた笑山寺に愛着を持って「笑山寺隠居」と名乗っているのか、あるいは本当に国許にいる時は笑山寺で過ごしていたのか。詳しい事はわかりません!が、多分慶安二年の秀元さんは老齢ですし、実務は息子の光広さんが執っていたのかもしれません。
「白尓軒」てのが何の事やらあちゃーって感じですが、文章の流れを見るに秀元さんの号かと思われます。細川忠興さんの三斎みたいな感じで。何かにちなんでるのかなあ。島井宗室さんの号も虚白軒だし、白軒に何かあるんだろうか。
執務者って言うのはお寺の責任者みたいなものでしょうかね。…これは調べればわかりそうな予感。
()がついてるのは管理人が読み方がわからない単語の読みの一つをとりあえず書いてみただけです。(…)
・毛利元就輝元連署安堵状
『長門国府潮音院同所潮音軒
同国阿川別府潮音院并阿内
光明寺等之事任去弘治三年八
月十一日隆元證(=証?)判之旨寺家云寺
領全執務領掌不可有相違之状
如件
永禄拾年六月廿日 輝元(花押)
元就(花押)
禅超首座』
これは日頼寺蔵だそうなのですが、日頼寺は元就さん縁のお寺なので納得。
弘治三年は1557年、永禄十年は1568年。その間に隆元さんはお亡くなりになってますから、隆元さんが出した安堵状だけではマズイと言う事になって、当主の輝元さん(とは言ってもこの時16歳)と事実上の当主元就さんが連署して安堵状を出したものと思われます。
これは大体意訳出来そうな気がするのでしてみると、「長門国の潮音院と同じく長門国の阿川別府にある潮音院並びに阿内(地名?)光明寺等のことは、さる弘治三年八月十一日に隆元が証文を出した通り、寺家(檀家みたいなもの?)も寺領も執務領掌(役職名か)が全部把握して下さいって事で、これからもその通りですよ」って所でしょうか。
しかし何が一番気になるって輝元さんと元就さんの字の大きさの違い。(…) 輝元さんはデカイし元就さんは小さいよ。なんだろう、性格の差異かな。(…)
・大内義隆安堵状
『長門国府潮音院同所潮音軒
同国阿川別府潮音院并
阿内光明寺真如院等寺任
代々裁(字がないので代用)許之旨執務領掌
不可有相違之状如件
享禄三年七月五日
多々良朝臣(花押)
禅恕首座』
これも日頼寺にあるのはどうなんだろうと思いつつも、一個上とよく似てて参考になるので載せました。1530年、山口が「西の京」として繁栄を迎えている時の御当主・大内義隆さんによって出された安堵状です。
「多々良朝臣」とは何ぞやと最初は思ったのですが、大内さんは本姓が「多々良」なんですね。でも自分の本名ではなく「多々良朝臣」と署名するところに義隆さんの個性と言うかプライドを感じます。(「氏+朝臣」は平安時代以降は公卿でないと使えない名乗りです。義隆さんはこの時まだ四位以下なので公卿じゃありません)
また、「多々良」と言う姓も伝承的な要素が強い姓なので、「百済の聖明王の末裔である」事に義隆さんが拘っていたのか、あるいは戦国時代に失われつつあった伝統や格式を重んじる事を名乗りで示していたのかもしれません。……いや、適当ですよ!(だと思った)
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