秀包の同母兄。元就の四男(五男)。
読み:ほいだ もときよ
生没年:天文二十年(1551年)~慶長二年七月九日(1597年8月21日)
享年:48歳
幼名:少輔四郎
改名履歴:大江元清⇒穂井田元清⇒毛利元清
※最後の改名は1585年、長男秀元が毛利輝元の養子になった為。
官位:伊予守、治部大輔、侍従(従四位)
戒名:洞雲寺殿笑山常快禅定門
墓所:広島県廿日市市佐方洞雲寺(妻の来島氏も同じ)
妻:来島通康の娘・松渓妙寿(妙寿院)
子:毛利秀元
妻の妙寿院とは1568年頃に結婚か。
来島氏は伊予の大名で、強力な水軍を持つ村上氏の一派。厳島の戦いで援軍として参陣。その後も積極的に元就の力となっており、宇都宮氏との戦いの際には元就が援軍を派遣している。1567年に妙寿院の父である来島通康は病死しており、次に家督を継いだのが幼子の通総(恐らくは妙寿院の弟)である事から、水軍との結びつきを重視する元就と毛利の庇護を確実なものとしたい来島氏の思惑が一致した結果…かもしれない。(待て)
読み:ほいだ もときよ
生没年:天文二十年(1551年)~慶長二年七月九日(1597年8月21日)
享年:48歳
幼名:少輔四郎
改名履歴:大江元清⇒穂井田元清⇒毛利元清
※最後の改名は1585年、長男秀元が毛利輝元の養子になった為。
官位:伊予守、治部大輔、侍従(従四位)
戒名:洞雲寺殿笑山常快禅定門
墓所:広島県廿日市市佐方洞雲寺(妻の来島氏も同じ)
妻:来島通康の娘・松渓妙寿(妙寿院)
子:毛利秀元
妻の妙寿院とは1568年頃に結婚か。
来島氏は伊予の大名で、強力な水軍を持つ村上氏の一派。厳島の戦いで援軍として参陣。その後も積極的に元就の力となっており、宇都宮氏との戦いの際には元就が援軍を派遣している。1567年に妙寿院の父である来島通康は病死しており、次に家督を継いだのが幼子の通総(恐らくは妙寿院の弟)である事から、水軍との結びつきを重視する元就と毛利の庇護を確実なものとしたい来島氏の思惑が一致した結果…かもしれない。(待て)
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・功山寺(こうざんじ)
曹洞宗。元の名は長福寺。
元応二年に虚庵玄寂禅師によって創建。金山長福寺と号する。改名は慶安三年、長福寺再建を行った秀元によって行われ、以後長府毛利家五万石の菩提寺になる。
禅宗の名刹として知られ、桜と紅葉の名所でもある。
その一方で大友義長最期の地、高杉晋作挙兵の地としても知られている。
・笑山寺(しょうざんじ)
曹洞宗。元の名は妙寿寺。
元和年間(1615~1623年)、天翁和尚を開山とし、亀ノ甲にあった蓬莱山潮音院と言う古跡寺を毛利秀元が移して開基。祖母の乃美大方の位牌を安置し、実母の法名「松渓妙寿」にちなんで妙寿寺と当初は号した。
その後、洞雲寺三庭和尚を招いて中興開山とし、長府藩二代目藩主光広が承応元年(1652年)に祖父穂井田元清の法名「洞雲寺笑山常快」にちなんで笑山寺と改名した。
あと一個ありますが関係なさそうな気がするので 省 略 。
穂井田元清さんの洞雲寺には桂元澄と陶春賢の墓もあるそうな。へえー。
曹洞宗。元の名は長福寺。
元応二年に虚庵玄寂禅師によって創建。金山長福寺と号する。改名は慶安三年、長福寺再建を行った秀元によって行われ、以後長府毛利家五万石の菩提寺になる。
禅宗の名刹として知られ、桜と紅葉の名所でもある。
その一方で大友義長最期の地、高杉晋作挙兵の地としても知られている。
・笑山寺(しょうざんじ)
曹洞宗。元の名は妙寿寺。
元和年間(1615~1623年)、天翁和尚を開山とし、亀ノ甲にあった蓬莱山潮音院と言う古跡寺を毛利秀元が移して開基。祖母の乃美大方の位牌を安置し、実母の法名「松渓妙寿」にちなんで妙寿寺と当初は号した。
その後、洞雲寺三庭和尚を招いて中興開山とし、長府藩二代目藩主光広が承応元年(1652年)に祖父穂井田元清の法名「洞雲寺笑山常快」にちなんで笑山寺と改名した。
あと一個ありますが関係なさそうな気がするので 省 略 。
穂井田元清さんの洞雲寺には桂元澄と陶春賢の墓もあるそうな。へえー。
読み:のみおおかた
本名:不詳
立場:毛利元就の継室もしくは側室
生没年:?~慶長六年九月四日(1601年9月29日)
享年:?歳
法名:慈恩院蘭渓怡秀
菩提寺:山口県下関市長府功山寺、笑山寺
父母:乃美弘平もしくは乃美隆興。
夫:毛利元就
子:穂井田元清(少輔四郎)、天野元政(少輔七郎)、小早川秀包(才菊丸)
天文十七年(1548年)頃に毛利元就に嫁ぐ。
元就死後は元清の桜尾城に引き取られ、毛利家が防長に移封された後は長門国秋根に住んだ。
本名:不詳
立場:毛利元就の継室もしくは側室
生没年:?~慶長六年九月四日(1601年9月29日)
享年:?歳
法名:慈恩院蘭渓怡秀
菩提寺:山口県下関市長府功山寺、笑山寺
父母:乃美弘平もしくは乃美隆興。
夫:毛利元就
子:穂井田元清(少輔四郎)、天野元政(少輔七郎)、小早川秀包(才菊丸)
天文十七年(1548年)頃に毛利元就に嫁ぐ。
元就死後は元清の桜尾城に引き取られ、毛利家が防長に移封された後は長門国秋根に住んだ。