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2025/05/15 22:39 |
基本データ:吉川広家
読み:きっかわ ひろいえ
立場:岩国領初代当主。長州藩家老。

生没年:永禄四年十一月一日(1561年12月7日)~寛永二年九月二十一日(1625年10月22日)
享年:65歳

改名履歴:吉川経信⇒経言⇒広家
官位:蔵人頭(1583年)、従五位下・侍従(1588年)、従四位下・侍従如元(翌年)、民部少輔

父母:吉川元春、新庄局(熊谷信直の娘)
兄弟:吉川元長(1548~1587年)、吉川(毛利)元氏(1556~1631年)、娘(益田元祥室)

正室:宇喜多秀家の姉(宇喜多直家の娘)
側室:若村氏(若村藤兵衛の娘)、品川氏(品川信重の娘)、今福氏ら
子:吉川広正(1601~1666年。又次郎。若村氏)、毛利就頼(1607~1676年。彦二郎。品川氏)、今姫(益田就宣室)

「尾張のうつけ」ならぬ、「吉川のうつけ」として有名な三男坊。元春夫婦にとっては頭痛の種か、あるいは手のかかるほど可愛いのか、経言の行状を注意、叱責する書状がいくつも残っている。
広家に改名したのは吉川家当主となった天正十五年(1587年)で、輝元より「広」の一字書出を与えられて改名した。
また、正室の宇喜多氏は豊臣秀吉の養女である事から、結婚は吉川家当主となった1588年頃か。ただし、だとすると広家は28歳まで独身…と言う事になり、ちょっと遅すぎるんじゃないかと言う気もする。
秀包とは1583年に福原広俊と共に秀吉の人質となる為に大坂に行っているが、秀包以外はすぐに返された。この時、人質の労を輝元に感謝され、隠岐一国を与えられている。
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2009/03/05 14:24 | Comments(0) | 毛利家

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