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2025/06/13 10:41 |
基本データ:小早川隆景
読み:こばやかわ たかかげ
立場:小早川家当主。五大老。

生没年:天文二年(1533年)~慶長二年六月十二日(1597年7月23日)
享年:65歳

幼名:毛利徳寿丸
通称:又四郎、羽柴筑前宰相
改名履歴:毛利徳寿丸⇒小早川隆景
戒名:黄梅院泰雲紹閑
墓所:東盧山米山寺(広島県三原市)、黄梅院(龍寶山大徳寺の搭頭寺院)

父母:毛利元就、妙玖夫人(吉川国経の娘)
正室:問田大方(小早川正平の娘。1543?~)
養子:秀包(1567~1601年)、秀秋(1582~1602年)

天文十四年(1544年)に大内義隆の意向により沼田小早川氏の養子となり、天文十九年(1550年)に小早川本家当主繁平(1542~1574年)を隠居、出家に追い込んで、繁平の妹である問田大方の婿養子として小早川本家当主となる。

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2009/03/05 14:46 | Comments(0) | 小早川家
基本データ:吉川広家
読み:きっかわ ひろいえ
立場:岩国領初代当主。長州藩家老。

生没年:永禄四年十一月一日(1561年12月7日)~寛永二年九月二十一日(1625年10月22日)
享年:65歳

改名履歴:吉川経信⇒経言⇒広家
官位:蔵人頭(1583年)、従五位下・侍従(1588年)、従四位下・侍従如元(翌年)、民部少輔

父母:吉川元春、新庄局(熊谷信直の娘)
兄弟:吉川元長(1548~1587年)、吉川(毛利)元氏(1556~1631年)、娘(益田元祥室)

正室:宇喜多秀家の姉(宇喜多直家の娘)
側室:若村氏(若村藤兵衛の娘)、品川氏(品川信重の娘)、今福氏ら
子:吉川広正(1601~1666年。又次郎。若村氏)、毛利就頼(1607~1676年。彦二郎。品川氏)、今姫(益田就宣室)

「尾張のうつけ」ならぬ、「吉川のうつけ」として有名な三男坊。元春夫婦にとっては頭痛の種か、あるいは手のかかるほど可愛いのか、経言の行状を注意、叱責する書状がいくつも残っている。
広家に改名したのは吉川家当主となった天正十五年(1587年)で、輝元より「広」の一字書出を与えられて改名した。
また、正室の宇喜多氏は豊臣秀吉の養女である事から、結婚は吉川家当主となった1588年頃か。ただし、だとすると広家は28歳まで独身…と言う事になり、ちょっと遅すぎるんじゃないかと言う気もする。
秀包とは1583年に福原広俊と共に秀吉の人質となる為に大坂に行っているが、秀包以外はすぐに返された。この時、人質の労を輝元に感謝され、隠岐一国を与えられている。

2009/03/05 14:24 | Comments(0) | 毛利家
基本データ:支藩
・長府藩
六万石。長門府中藩とも。
毛利輝元養子・穂井田元清嫡男の毛利秀元を祖とする。
居城は櫛崎城(長府城、長府陣屋とも)。長州藩の西の守りとして関門海峡を守った。
輝元の養嗣子は退いたものの、養子として長州藩においても重きをなした。長州藩に嗣子が出来なかった場合に、長府藩主、または藩主の子が長州藩主となっている。(三代・綱元の子である毛利吉元と八代・毛利匡敬)

・岩国藩
吉川元春と新庄局の三男・吉川広家を祖とする。
毛利家一門でありながら、毛利を名乗る事を許されていない。
曰くのありすぎる藩…と言うか、領。支藩と認められたのは廃藩置県直前である事から、吉川領、もしくは岩国領と表記するのが正しいと思われる。ただし、長州藩からは陪臣扱いであったが、幕府からは参勤交代の義務や築城許可を与えられると言うややこしさを持っている。
岩国領のややこしさは、幕府としては外様大名として扱っていたが、毛利家の中では関ヶ原主戦派であった秀元が広家を許さず、激しく対立した事から生じている…とされている。岩国城も、幕府からの許可は下りていたが、秀元の長府藩は陣屋であったのに対し、広家の岩国城があるのはマズイとして長州藩が破却を命じたとも。
ただし、秀元は広家の死後に広家の子で二代の広正と長州藩からの独立騒動を起こしており、長府と岩国の不仲はよくわからない。輝元も広家を東の守りとして岩国を与えており、関ヶ原の後暫くはともかく、言われるほどに当主同士は不仲ではなかったのではなかろうか。

2009/03/05 13:51 | Comments(0) | 毛利家
基本データ:一門家老
・筆頭 宍戸家(ししどけ)
宍戸隆家に元就と妙玖の次女・五龍が嫁いだ事により、毛利両川に次ぐ扱いを受け、防長移封後も一門家老衆筆頭となる。
隆家と五龍の長女は河野道宣(伊予河野氏当主)の、次女は吉川元長(元春長男)の、三女・南の方は毛利輝元の正室となった。

・次席 右田毛利家(みぎたもうりけ)
元就と乃美大方の七男・毛利(天野)元政を祖とする。
初め、関ヶ原の戦いの後に周防国三丘(山口県周南市)で一万石を与えられたが、元政の嫡男である元倶の時に宍戸家と領地を交換し、周防国右田(山口県防府市)に移封。一万三千石を領する。
また、三代元法の子・就直は吉敷毛利家に入った。

・第四席(第三席?) 吉敷毛利家(よしきもうりけ)
元就と乃美大方の九男・毛利(小早川)秀包を祖とする。
関ヶ原の戦いの後、間もなく病死した秀包の子である元鎮が周防国吉敷(山口県山口市吉敷)に七千石を領し、吉敷郡吉敷村に本拠を構えたのが始まり。後に加増され、一万一千石となる。二代で秀包の血は絶えたが、秀包の同母兄・元政を祖とする右田毛利家から幾度となく養子を貰い、存続した。
菩提寺は玄済寺。

・厚狭毛利家(あさもうりけ)
元就と三吉氏の間に生まれた五男・元秋を祖とする。
元秋亡き後は彼の同母弟である八男・元康が継ぎ、関ヶ原の戦いの後に長門国厚狭(山口県山陽小野田市)に一万五百石を与えられたのが始まり。後、厚狭郡末益村(山陽小野田市)と厚東郡船木村(宇部市)を与えられ、末益村に居館を構えた。

・阿川毛利家(あがわもうりけ)
吉川元春と新庄局の次男・毛利(吉川)元氏を祖とする。
山口県下関市豊北町阿川・滝部を領した。

2009/03/05 13:27 | Comments(0) | 毛利家
基本データ:吉敷毛利家
読み:よしきもうりけ

祖:毛利(小早川)秀包
領地:周防国吉敷(山口県山口市吉敷地内)
本拠:吉敷郡吉敷村
家格:長州藩一門家老第四席

初め、秀包の子・元鎮が周防国吉敷に七千石を与えられ、後(1625年?)、領地替えの時に元鎮の子・元包が一万一千石に加増される。元包は豊浦にあった菩提寺(黄龍山玄済寺)を吉敷に移しており、元包の時に吉敷毛利家として確立したものと思われる。

・歴代当主
初代 元鎮(1591~1672):秀包の長男。
二代 元包(1607~1676):元鎮の嫡男。吉敷入りした最初の当主。慶長十八年(1613年)、父・元鎮と共に阿川八幡宮を修築した。
三代 就直(1635~1710):なりなお。毛利(天野)元法(右田毛利家三代当主。天野元政の孫)の子。

2009/03/05 12:55 | Comments(0) | 小早川秀包/大友桂姫

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